亀迫城
別名- | 付近住所 岡山県井原市西江原町 | 現在 亀迫城山公園 |
2009/9/12 | 案内板アリ |
毛利氏 宍戸氏配下 |
室町時代の末期、天文2年(1533)から元亀元年(1570)まで、38年間備中松山城(高梁市)の城主・荘備中守為資と長男・荘備中守高資の父子が西江原を支配していた。元亀元年(1570)川上郡成羽城主・三村備中守家親は毛利氏の援軍を請うて松山城主・荘備中守高資を討った。 このとき毛利氏は備中の国一円を掌握しようと毛利元清を大将として本郡(後月郡)へ兵を進め、敵を防ぐ要路に位置するこの地に亀迫城(砦のような小さい城)を築いた。元清は、宍戸安芸守を守衛に任命し、その家臣・木村平内と神田六郎兵衛の二人を郡代として常駐させ要害山砦を修理し、逆茂木(敵の進攻を防ぐためにとげのある木の枝を外側に向けた垣)を南は小田川を渡って木之子の称屋ヶ端まで立てめぐらし、軍備を構え、亀迫城を拠点として小田郡の中山城、船ヶ迫城、奥ノ城をつぎつぎに攻略し、遂に猿掛山城の城主・穂井田実近を攻め滅ぼして、猿掛山城主となった。 慶長5年(1600)、”天下分け目の戦”といわれた「関ヶ原の合戦」で、石田三成、毛利輝元ら西軍は徳川家康の東軍に惨敗した為、毛利氏は備中など中国地方八カ国の領地を没収、周防・長門の二国(現・山口県)に減封されて、当地方は徳川幕府が支配した。 このころ、亀迫城は廃城されたとおもわれる。 |